精養軒は日本ではフランス料理の最古の名店である。
しかし、日本でのフランス料理の起源を語るとき、フランス人シェフのジョルジュ・オーギュスト・エスコフィエ(Georges Auguste Escoffier、1846(弘化2)年-1935(昭和10)年を抜きには語れない。
西洋料理の料理人を目指した明治・大正期の日本人の先達たちは、彼の書を読み、あるいは渡欧して直接彼に師事しているからだ。
故人となったいまなお、フランス料理界の頂点に君臨するかのように社団法人日本エスコフィエ協会というフランス料理人の団体もあるし、オーギュスト・エスコフィエ世界連盟という団体もあるくらいだ。
§ジョルジュ・オーギュスト・エスコフィエ(Georges Auguste Escoffier)
フランス料理の「法王」
ジョルジュ・エスコフィエは1846年というから明治維新少し前に、フランスはニースに近いヴィルヌーヴ=ルーベ(Villeneuve-Loubet)という村で生まれている。明治元年には22歳となる。精養軒の創始者・北村重威より27歳若い。
フランス料理の改革や考案、大衆化で実績を残した。また料理のみならず、レストラン経営や料理人の旧弊改革や地位向上にも尽力した。
彼の主著『料理の手引き』(Le Guide Culinaire=「ル・ギード・キュリネール」)は1903(明治36)年に出版されたが、約5,000ものレシピが掲載されており、いまなお世界のフランス料理のシェフのバイブルと言われている。
1890(明治23)年に開業した帝国ホテルは、フランス料理でも日本のトップクラスといえるが、その基礎を築いたとされる内海藤太郎氏(第4代総料理長)は、エスコフィエの技術を文献から熱心に学んだといわれている。また、同ホテルに本格的にエスコフィエの技術を確立したのは、昭和に入ってから石渡文治郎(第7代総料理長)が渡仏して、エスコフィエに師事してからである。
§ルイ・ベギュー Louis.Beguex (生没年不詳)
築地精養軒の開業に貢献
ルイ・ベギューは、日本で最初の西洋式ホテルであった築地ホテル館の初代料理長であった。同ホテルは1868(慶応4)年、築地船板町の軍艦操練所の跡地の築地の外国人居留地に完成。惜しくも開店当日に類焼した馬場先門の精養軒と同じ「銀座の大火」で焼失、わずか数年の営業期間であった。
彼は、腕利きのシェフであったようで横浜のグランドホテルの初代料理長や関西西洋料理界の老舗・オリエンタルホテルの料理長など、数々の名門ホテルのレストランの基礎を作ったといわれる。
築地精養軒が開業するに当たっても、彼が料理の指導に関与したとも言われているが確たる文献は見当たらない。
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§秋山徳蔵 1888(明治21)年-1974(昭和47)
「天皇の料理番」、築地精養軒で修行
大正、昭和の「天皇の料理番」といわれ、1915(大正3)年11月に宮内省大膳職主厨長の拝命(27歳)から1972(昭和47)年、84歳の高齢を理由に辞職を申し出るまで両天皇の台所を仕切った。
1904(明治37)年、秋山16歳の時、宿望がかなって故郷・福井県武生から上京、東京・日比谷の華族会館(元鹿鳴館)で3年間修行することになる。実家が、鯖江にあった三十六連隊の将校集会所の賄いをやっており、奉公人に連れられて時々連隊へ連れて行ってもらったのが、この道へ入るきっかけになった。
このころの西洋料理の板場修行は、皿洗い、なべ洗いに明け暮れる。秋山はこれではいけないとフランス語の料理原書をもって築地にある個人教授のところへ通う。勤務が終わって日比谷から築地まで通い、帰ってきて夜中の1時ころまで勉強する。翌朝は早番だと5時には調理用のストーブには火を入れなければならない。
因みに、1960年代に上野精養軒へ入社した女性の話によれば、社員はメニューをすべてフランス語で覚える必要があり、必死で勉強したという。客席のオーダーを調理場へ入れるのもフランス語だったそうだ。
さて、秋山は華族会館に3年いた後、築地の精養軒にはいった。当時の築地精養軒の料理長は、第4代目の西尾益吉であった。彼こそフランスでエスコフィエに師事した料理人で、当時としては洋行帰りのパリパリであった。
メニューなどもフランス語ですらすらと書いていたようで、秋山はこれに感銘を受け、本当に西洋料理をするにはやはり本場へ行かなくてはと思い立った。1908(明治42)年、20歳の時にシベリア鉄道経由でドイツのベルリン、そしてフランスのパリへと修行に出た。
従って、その時は1年前後くらいしか築地精養軒にいなかったことになる。築地精養軒へ来る前に駐日ブラジル公使館にいたという記録もある。パリでの修行の前に、彼はベルリンにひと時滞在し、その後パリではオテル・マジェスティックに2年、キャフェ・ド・パリに6ヵ月、オテル・リッツに6ヵ月いた。
1914(大正3)年、26歳の時に再び渡仏した。二男坊の彼は生涯フランスでシェフをしてもいいと思っていた。オテル・リッツで半年、オテル・マジェスティックで7ヵ月ほど働いているときに、大正天皇の即位に際し、本格的な洋食を作る指導者がいないので、
「帰ってこないか」
と話があった。
「御大礼が済んだらまたパリへ戻ってこよう」
そう思っていたという。結局同年11月、宮内省大膳職主厨長を拝命した。
秋山が築地精養軒の料理長だったという記述が散見される。もしそうだとすれば、1回目の渡仏の帰国後から2回目の渡仏前の間、彼の26歳前の数年のことになるが、当時は第4代目西尾益吉、第5代鈴木敏雄の料理長時代で、築地精養軒の黄金期ともいえる時期だ。確たる物証がなくなんとも言えないが、彼が料理長でいられた隙間はないように思える。
(写真は、中央公論新社発行 中公文庫「味」秋山徳蔵著から)
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§西尾益吉 (生没年不)
日本に初めて、エスコフィエ直伝のフランス料理を築地精養軒で
前述の秋山徳蔵が19歳(明治40年)で築地精養軒に入った頃、第4代目料理長を務めていた人で、秋山徳蔵にとっては師匠格になる。惜しむらくは生没年が不詳であるが、東京・銀座の清新軒を経て築地精養軒へ入った頃、初代の料理長の時代でスイス人カール・ヘスがその任にあった。
その後、単身渡仏してオテル・リッツ(フランス語ではhは発音しないので、ホテルはオテルとなる)で、当時はフランス料理界のカリスマともいえる「近代フランス料理の父」ジョルジュ・エスコフィエに師事できるチャンスを手にした。
帰国後は築地精養軒の第4代目料理長として迎えられた。日本に初めてエスコフィエ直伝のフランス料理を導入した人物といえる。当時の日本で唯一、本場の一流の技を知るシェフだった。その西尾が築地精養軒の料理長に迎えられたのだ。築地精養軒の社会的地位の高さが推測される。
洋行帰りで名実ともに箔を付けた彼が、最新のフランス料理を提供するものだから、これ切望し、政界はもとより財界、文壇のそうそうたる面々が築地精養軒へと頻繁に通い、築地精養軒の名声をいやがうえにも高めた。次の第5代目料理長・鈴木敏雄の時代とともに築地精養軒の最盛期ともいえるころを作り上げた。
その後、彼は料理長の立場から取締役支配人のポジションまで上り詰めた。
西尾は、精養軒を去ってからは東京・本郷で洋食屋・燕楽軒を1918(大正7)年に開業した。芥川龍之介など文壇の名士たちに愛用されたが、戦災により焼失、再建はされなかった。
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§鈴木敏雄 (1890=明治23~1967=昭和42)
宮内省の仕出し料理を腕前で獲得、人望から多くの弟子全国に
西尾益吉とともに築地精養軒(および上野支店=現・上野精養軒)の全盛時代を築いた。「名人」といわれるほど腕が立ち、料理は言うに及ばず、菓子においてもその腕前は抜きんでており、見栄え、味ともに素晴らしかったといわれる。
その頃、宮内省(現・宮内庁)御用達の料理店は何店かあったが、鈴木敏雄の腕前により、宮内省からの仕出し注文の大半は精養軒が受けていた。
彼は修行の頃、東京、横浜、そして神戸など日本の主要なほとんどのホテルで働いたといわれるほど熱心な修行時代を送った。
神戸オリエンタルホテルで第5代目料理長をしているころ、精養軒の第4代目料理長の後任として精養軒に迎えられた。
前出の天皇家の料理人といわれた秋山徳蔵氏とは無二の親友だった。秋山は明治21年生まれ、鈴木は明治23年生まれであった。
弟子たちの面倒見がよく、また、彼らに公平に対応したので、鈴木を慕う優れた料理人が幾人も精養軒から育って行った。代表的な弟子としては、関塚喜平(㈱喜山創業者)、高須八蔵(『大門精養軒』社長)、中島伝次郎(宮内庁第二代主膳長)などを挙げる事ができる。 また、明治23年に開業した帝国ホテルをはじめ、当時の西洋料理店の料理人の多くが精養軒やその流れをくむコックから技術を学んでいった。
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§カール・ヘス Catl Jacob Hess(1838~1897)
初代料理長、日本に初めて、本格的なフランスパンを
カール・ヤコブ・ヘスは1838(天保9)年、スイスのチューリッヒ生まれ。パリでシェフの修行をし、上海経由で日本へ来ている。神戸で働き、横浜の洋菓子店で働いていたときに、築地精養軒が開業するに当たり料理長として招聘された。35歳であった。
彼は築地精養軒の西洋料理の基礎を築いたといえる。第4代目料理長で築地精養軒の全盛期を築いた西尾益吉も彼の下で修行を積んだ。
しかし、彼はフランス料理もできたであろうが、どちらかというと洋菓子やフランスパンが得意であったようだ。不運にして列車から転落し、片腕を失ったため築地精養軒を辞している。そして1874(明治7)年、36歳で築地にフランスパンの専門店「チャリ舎」を開業している。吟味した材料を使い日本で初めて本格的なフランスパンが人気を呼んだといわれる。 >>> 当頁上へ
§戸山慎一郎
謎めくカール・ヘスとの関係
ヘスが築地精養軒の初代料理長であったのは疑いのないところであろうと思われる。各種の記録にそう記されている。
しかし、開業時(明治5年)に料理長として呼ばれたことと矛盾する資料がある。
『築地外国人居留地』(川崎晴朗著・平成14)によると、
「ヘスが築地精養軒のシェフになったのは1884年(明治17年)で、1896年(明治29年)までこの地位にとどまった」
とある。しかも、彼はシェフではなくパンやパイの職人としていたようで、後に「チャリ舎」というフランスパン屋を営んでいたことはヘスの項に記した。
ついでながら、ヘスの年齢は明治17年に46歳、同29年には58歳である。
仮にこの西暦が正しいとすると、築地精養軒の創業である明治5年からヘスが就任する明治17年までの間、料理長は誰が務めていたのか?
そして同書に引き続き紹介されており、他に記録がないのが戸川慎一郎だ。以下、同書から引用させていただく。
「実際に精養軒の調理場を取り仕切っていたのは戸山慎一郎という日本人であった。彼の三男は、のちに、『爺が精養軒に於ける勢力、聲望は素晴らしいものであった。主人は在って無きが如く、萬般の交渉、常に爺の胸算のよって行われた。“精養軒の小山(注 戸山慎一郎のこと)か、小山の精養軒か”と言われた事でも其の全貌が推察出来よう。殊に、宮内省拝命に応じて、時折りの賜宴等は常に爺の手に調えられた』と回顧している。精養軒にとっては、外国人シェフを擁していることが体面上重要なのであって、ヘスが調理場に常時いなくても別に構わなかったらしい。(中略)ヘスは1896(明治29)年ごろ、精養軒のシェフのポストを名実ともに戸山慎一郎に譲って引退した(翌年11月に死亡)」。
参考までに、『築地外国人居留地』でヘスが引退したと記述されている1896(明治29)年に、ヘスは58歳、第5代目料理長鈴木敏雄はまだ6歳、鈴木の無二の友人の「天皇の料理番」秋山徳蔵は8歳、生没年不詳の精養軒第4代目料理長は、仮に10歳年長としたら18歳のころの話である。
しかし、明治の時代にヘスが46歳から58歳までという、当時としてはかなりの高齢期に築地精養軒のシェフであったとする『築地外国人居留地』の記述には、素直にストンと飲み込めないものがある。就職年齢も、退職年齢も高すぎやしないか、と思うのは筆者だけであろうか?
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§深沢二朗(侑史)(1894(明治27)-1962(昭和37)
西洋料理の大家
西洋料理店の名門・東陽軒を1887(明治30)年に麹町の紀尾井町に開店した深沢為次郎(1858=安政4年生-没年不詳)の次男・二朗(侑史)は、東陽軒で父から西洋料理を仕込まれた。その後、築地精養軒で西尾益吉の弟子として修行している。
築地精養軒の後は海軍省や帝国鉄道協会の料理長や、帝国ホテルの経営による丸の内の東京会館の料理長(1922=大正11年~)、華族会館の料理長(1922=昭和2年~)を務めた。
早世した父の後を兄が経営していた東陽軒を引き継いだが(1930=昭和4年)、この店は戦前には閉店していたようだ。
のちに女子栄養大学・短期大学の教授として戦後の西洋料理の発展に大きく寄与した。
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§北垣栄七郎
築地精養軒から東洋軒の初代料理長へ
東京・三田にあった東洋軒は、1889(明治22)年)「今福」の名で開業。築地精養軒と並んで、明治期を代表する西洋料理店の一つだった。創業者は伊藤耕之進。牛鍋屋として開業していたのを、総理大臣・伊藤博文氏に西洋料理店に転換することを勧められて、1897(明治30)年に、東洋軒と改名。築地精養軒のコック・北垣栄七郎を初代料理長に招いて西洋料理店に転換したと伝えられる。
第2代目料理長は小笠原平左衛門、3代目は秋山徳蔵だが、秋山は16歳で東京に出た時に最初に華族会館で西洋料理の修行を3年した。その後、築地精養軒へ移り西尾益吉の下で修業し、20歳で最初の渡仏をする。3年強修行して帰国、26歳で再び渡仏するが、その時、宮内省大膳職主厨長を拝命し、以後、他のレストランへは行っていないので、26歳前の数年間に東洋軒の第3代目料理長をしたと思われる。
明治30年には、東洋軒と東陽軒があった!
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§林玉三郎
厳しい指導にも耐えた天才料理人
精養軒とともに味のレベルが高く、幾多の名コックを輩出した名門中の名店として渡邊鎌吉(1857-1922)が創業した中央亭がある。三菱財閥の岩崎弥太郎をスポンサーとして1988(明治32)年、丸の内の三菱新館の中にオープンした。
渡邊は母が横浜の外国人居留地で働いていた関係で、横浜のオランダ公使館でコックの修行を始める。必要からフランス語、英語を身につけ、読み書き会話に不自由はなかったようだ。料理の才に恵まれた渡邊は20歳ころは、「オランダの鎌さん」と呼ばれた。同じころフランス公使館で名料理人として鳴らした「フランスの為さん」こと深沢為吉と並び称されたという。
渡邊の弟子への指導の厳しさとしつこさは尋常ではなく、弟子入りしても3日と続かないコックが多かったと伝えられる。それでも彼の腕前に惹かれて弟子入りするコックは多かった。精養軒や東洋軒で活躍し、「天才」と呼ばれた林玉三郎もその一人だった。
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