精養軒の起源
政府高官の支援で馬場先門に開店した精養軒は、
ちょうどその日に会津藩邸から出火し、後に「銀座の大火」と呼ばれる火災で全焼してしまった。
しかし、創業者の不屈の精神力でほどなく築地に新装開店する。
>>>続きを読む
 
明治期の上野精養軒

 ジーメックス株式会社ホームページへ









 まずは上野精養軒の生い立ちを概略述べておこう。

 上野精養軒は、1872(明治5)年、皇居前の馬場先門に初めて「精養軒」の原型となる店舗を開業した。それが「精養軒」という名称であったか否かは確認できないが「精養軒」の原点であることは間違いない。
 ところが後に述べるように、いわゆる「銀座の大火」によって、開店当日に類焼を受けて全焼してしまうという、ドラマのようなスタートを切る。

 創業者は、これをものともせず2ヵ月後に、現在、時事通信社があるところ(晴海通りと昭和通りが交差するあたりで、かつては銀座東急ホテルがあった)で再び開業する。その翌年、本格的な建物を再建し「築地精養軒」として華々しくオープンし、明治維新による日本の西欧文明化途上の社交場として大きな役割を果たしていくことになる。明治時代の文明開化の象徴的建造物である鹿鳴館ができる前のことである。

 1976(明治9)年には、現在の上野公園が開場したのに伴い、欧米視察より帰朝した岩倉具視ら政府要人の勧めにより、公園内食事処かつ社交の場として、最高の展望を誇る現在の地に築地精養軒が上野支店を開店する(写下とその下)
         














             
左の2階建て建物は
韻松亭、
その奥が時の鐘。
中央奥は上野精養軒。
右奥に上野大仏(*)が見える。

(*)上野大仏:上野大仏は、現在の上野恩賜公園内に造立されていた大仏。1631(寛永8)年建立。像高約6メートルの釈迦如来坐像だった。度重なる地震、火災等の罹災により損壊し、1940(昭和15)年には軍需金属資源として顔面部以外は供出され、仏像は消滅した。現在では顔面部のみがレリーフとして保存されている(写真)

 1909(明治42)年には築地精養軒は在来館を取り壊し、そこへ新館をオープンするが、惜しくも1923(大正12)年の関東大震災で焼失、以後、上野支店に上野精養軒としての本社が置かれている。
1910(明治42)年の改築前。












1910(明治42)年、
旧建物を取壊し、3階建32室の新館オープン。


 神田精養軒という企業もあるが、これは戦後間もなく上野精養軒のベーカリー部門が独立したものである。2009(平成21)年2月に自己破産した。上野精養軒とは資本関係や人事交流が何らない別法人である。

§岩倉使節団に洩れた創業者・北村重威

 さて、馬場先門に初めて精養軒を創業した人物は、その名を北村重威(しげたか)という。京都は下京区新開町にある佛光寺の寺侍(てらざむらい)であった。寺侍とは江戸時代、門跡寺院など格式の高い寺に仕えた武士のことである。

 生年は文政2(1819)年である。江戸の町民を中心に栄えた化政文化時代(文化文政期=1804年~1829年)の後期に当たる。この頃は、政治・社会の出来事や日常の生活を風刺する川柳が流行したり、庶民生活を面白おかしく描いた、滑稽な作り話が好まれた。十返舎一九の『東海道中膝栗毛』はそのひとつである。

 また、現在、テレビなどの時代劇の時代背景もこのころのものが多い。重威は、1906(明治39)年、築地精養軒の新館が完成する3年前に88歳で亡くなっている。

 重威は、明治維新の志士十傑にはいる公家の岩倉具視(ともみ)の側用人であった。1868(明治1)年、重威49歳の時、岩倉具視(当時43歳)が東京へ来るのに同行して東京へ出てきた。

 岩倉家は公家で、明治維新に伴い1869(明治2)年から1947(昭和22)年まで存在した日本近代の貴族階級・華族となる。1884(明治17)年には華族に授けられる五爵(公・侯・伯・子・男=こう・こう・はくし・だん)の中でも最高位の公爵を授けられている。

 岩倉は上京して維新政府の立ち上げの激動期に多忙を極めるが、1872(明治4)年11月12日、木戸孝允、山口尚芳、伊藤博文、大久保利通ら政府首脳陣や留学生を含む総勢107名からなる米欧使節団の正使(団長)として横浜港から出発する。

 使節団のほとんどは断髪・洋装であったが、岩倉はチョンマゲに和服という出で立ち。日本の伝統文化に対して誇りを持っていたと伝えられるが、先に米国に留学していた息子にシカゴで会い、「未開の国と侮りを受ける」と説得され、断髪し、衣類も洋装に変えた。
 当時はまだチョンマゲに和服が主流であったが、1872(明治5)年には、明治天皇が初めて洋服を着用し、翌年には断髪した。以後、皇族の礼服には洋服が採用された。直垂(ひたたれ)、狩衣(かりぎぬ)、そして裃(かみしも)などは廃止され、服飾関係での文明開化が進んでいく。

 重威が精養軒を馬場先門に開店するのは、1872(明治5)年、岩倉が米欧の視察に出かけた後である。岩倉使節団が編成される時、重威は53歳。なかなかの野心家で官吏になりたかったという。しかし、年齢制限で視察同行がかなわなかった。

 重威は、そのころの宮内省には西洋料理を作る技術がなく、外国人を接待するにあたり、これにふさわしいホテルやレストランもなく、西洋料理は横浜から取り寄せていたのに着目した。「西洋人を接応できないことは国の恥」と思った重威は、西洋料理店の開業を岩倉に相談すると、社交上および外交上、ぜひ必要ということで賛同を得、三条実美、大久保利通、後藤象二郎などの政府高官、財界の援助を得、岩倉が渡航後、開店にこぎつけたのである。

 その頃、ホテルといえば、まだ明治になる直前の1868(慶応4)年8月10日(9月7日から明治)に築地船坂長町の軍艦操練所の跡地で、当時、外国人居留地だったところへ外国人向けの日本で初めてのホテル・築地ホテルが完成している。しかし、奇しくも、馬場先門に重威が開店した精養軒と同じ「銀座の大火」で焼失してしまった。現在の中央卸市場の立体駐車場の辺りである。当時、本格的な西洋料理を出すホテルやレストランはまだほとんどなかったので、わずか数年しか存続しなかったことが惜しまれた。


§開店当日の「銀座の大火」

 さて、「銀座の大火」の件である。岩倉具視らの支援もあって、北村重威は皇居(*)馬場先門に精養軒を開店する。1872(明治5)年4月3日のことであった。ところがこの日、後世に「銀座の大火」と呼ばれる大火事が発生した。
(*)皇居について;
 1868(慶応4)年、明治天皇が京都から東京へ行幸したことにより、江戸城が東京城(とうけいじょう)と称されるようになった。いったん京都へ戻った天皇が翌年、2度目の東京行幸をした時から、東京城は皇城(こうじょう)と称されるようになる。さらに1888(明治21)年に西の丸に新宮殿・明治宮殿が落成し、以後、宮城(きゅうじょう)と称された。戦後になり、1948(昭和23)年に宮城の名称は廃止され、以後、皇居と呼ばれるようになっている。
   従って、「銀座の大火」があった頃は「皇城(こうじょう)」と呼ばれていた。
 同日午後3時頃、和田蔵門内の兵部省添屋敷(元会津屋敷)から出火。火は内堀、外堀を飛び超えるように風に乗って稲妻のような速さで大名屋敷へ飛び火し、東海道の方へ走った、と記録されている。京橋、銀座、西本願寺から勝鬨辺りまでを全焼し、午後10時ごろ鎮火したという。

 当時は木造建築で風のあおりを受け、火の回りも速く、消防技術も未熟なため、壊滅的な被害を出し、41ヵ町、4,879戸、28万8,000坪(95万400㎡)が焼失した。

 皇居から東京湾まですっかり猛火に舐めつくされた。災火にかろうじて耐えた土蔵だけがあちこちに幽霊のように立ち、一面、無残な焼け野原と化してしまった。

 火元至近の馬場先門にあった精養軒は、この火災でひとたまりもなく全焼したのである。

 時の東京府知事・由利公正は、この機会に都市改造を行い、不燃建築物による近代都市を建設することとした。銀座は、政府の国家プロジェクトとして都市の不燃化を目指し、耐火レンガ造りの「煉瓦街」へと先進的な街づくりが急ピッチでなされたのである。というのも、当時、横浜港へ降り立った外国人は、さらに船で新橋へ来て、銀座を通って霞が関の役所に行っており、銀座は日本の玄関口だったからである。

 当時の新橋-横浜間の交通手段はまだ船しかなかった。
因みに、わが国初の鉄道が新橋と横浜間(29㎞)に開通したのは、この「銀座の大火」のあった年の10月14日のことであった。1889(明治22)年、この路線は神戸まで延長され東海道線と称されるようになる。これを記念して1900(明治33)年に作られたのが「汽笛一声新橋をはや我汽車は離れたり・・・」でお馴染みの鉄道唱歌だ。

 こうして建物はレンガ、舗道もレンガ、街には街路樹を植え、ガス灯をつけるという、当時としては非常に先進的な街づくりが進められていった。大蔵省のイギリス人トーマス・ジェームス・ウォートルズという設計技師の助言を得て、これを進めた。ロンドンのリージェンと・ストリートがモデルになったといわれる。1877(明治10)年に完成したが、惜しくも関東大震災で壊滅している。




                                        銀座煉瓦街のミニチュア(江戸東京博物館)
§築地精養軒の誕生

 皇居から東京湾まで一面の焼け野原となるような「銀座の大火」は、被災者はもとより新東京市民に大変な衝撃を与えたことは想像に難くない。しかし、260年余にわたる鎖国や、サムライ社会の旧習から解き放たれた市民の心は、新しく躍動を始める日本に向けて意気軒昂としていたであろう。

 その証拠に、機を熟して開店した当日に精養軒を全焼させられるという、土砂をかけられたような悲惨な状況にもかかわらず、重威は、わずか2ヵ月後の6月、木挽町5丁目3番地に築地精養軒ホテルを再建する。仮店舗のような建物だったと思われる。

 少し後に同じ木挽町30番地へ移転したとの記録もあるが、翌年、采女町に本格開業することを考えれば、馬場先門店を含め、仮店舗とはいえ1年のうちに何軒も建てる事は難しく、30番地は、同時期に重威の住居があったところと理解する方が自然である。ただ後に、重威は采女町に移転新築する築地精養軒の一角に(33番地)自宅を構えたようである。

 采女町は、現在の場所でいうと、銀座4丁目から晴海通りを築地へ向かい、昭和通りを越えてすぐ右側である。現在は時事通信社の新館があり、その前(1960-2001)は銀座東急ホテルだったところである。

 翌1873(明治6)年、築地精養軒は采女町に移転、本格的な営業に入る。建坪200坪(660㎡)客室12のわが国最初の本格的なホテル・レストランであった。

 采女町は木挽町の隣接地であり、その地名は、もともとは伊予今治藩の藩主・松平采女正定基の屋敷があったことに由来する。屋敷は1724(享保9)年の大火で麹町へ移転、その跡地は馬場や火除地(ひよけち)となった。火除地は、たびたびの大火対策として江戸幕府が防火用の空地として江戸各所に設けたものである。

 空地とはいえ、火除けの機能を損なわない程度に利用できた。幕府の薬園や馬場になったり、小さな露天商も出たりして盛り場を形成していたが、夜は寂しい場所であったという。
1869(明治2)年には市街地となり、銀座煉瓦街ができてからは築地の外国人居留地との間に位置して和洋混淆の新興地として賑わうようになる。

 重威が築地精養軒の建物を本格的に建築したのは、この采女ヶ原にあった海軍用地の一部の払い下げを受けた地番である。後に采女町32、33番地となった。元松竹映画の社長・会長を務めた城戸四郎氏の対談(『銀座百点』1977年刊、№270)によれば「坪五十銭かな」だそうである。

 因みに城戸氏は、重威の孫にあたる。同じ対談の中でこう語っている。
「重威のところに、わたしの父親が養子で入ったんです。父親は高松松平藩の勘定奉行の倅でしたから・・・」
「城戸さんはあそこ(精養軒)で、お生まれになったんですか」の問いに「いや、別の住まいのほうです。けれども、精養軒の残飯で育ったことは間違いない。(笑声)」
とある。

 こうして1873(明治6)年、築地精養軒の本格的な稼働により、1854(嘉永7)年に日米和親条約が締結され、鎖国は実質的に終了して開国を迎えた年から19年にして、日本の西洋料理は本格的に皇室、政界、財界、そして文壇を中心に広まっていくのである。

 文明開化の象徴とされた鹿鳴館の開館は、この時から10年後の1883(明治16)年、また今でこそ西洋料理の殿堂と呼ばれる帝国ホテルの開業は、17年も後(1890=明治23年)のことであった。

     「東京名所内上野公園地不忍見晴圖」黒い屋根が精養軒。歌川広重(三代)画(錦絵)。
>>> 当頁の上へ
                                                  >>> トップ頁へ
>>>ジーメックス株式会社ホームページへ