§ 平塚らいてうと市川房江
婦人運動の嚆矢「新婦人協会」発会式、上野精養軒で


 明治・大正期には、女性は、良妻賢母を旨として育てられ、参政権はなく、社会的地位も低かった。こうした時代に、婦人の社会的地位の向上や政治的権利を獲得しようと、平塚らいてう(写真左)や市川房江(写真右)、奥むめお(本名・奥梅尾=むめお)らは、1919(大正9)年11月24日に「新婦人協会」を創設した。

 その発会式が翌年3月28日、約70名を集めて上野精養軒で開催された。平塚33歳、市川26歳のときである。

 男性の花柳病(性病)を感染させられた女性が、男性から不当な扱いを受けていたことから、平塚らは母性の尊重をうたっていたが、女性の政治参加をも目指していた。この協会設立は、社会的に極めて大きな意義のある歴史的なイベントであった。その会場に、上野精養軒が使われたのである。

 平塚と市川は、その夏から和服に変えて洋装となり「快適で能率的な」イメージを訴求し、社会で活躍する女性を印象づけた。

 因みに、平塚らいてうの「らいてう」は「雷鳥」の当時のふりがなである。雷鳥は高山に棲む鳥で「孤独の鳥」「冬山の鳥」とも呼ばれていた。本名は平塚明(はる)である。
 平塚らいてうはこれに先立つ1911(明治44)年に、婦人運動を研究する青鞜社を設立し、機関雑誌「青鞜」を発行した。スウェーデンの婦人運動家エレン・ケイや禅の影響を受けて、と伝えられる。

 「青鞜」の名は、設立メンバーの1人・生田長江がつけた。19世紀にロンドンで始まった青(緑という説もある)の長靴下Blue Stockingの和訳である。ブルーストッキング、転じて、趣味のいい婦人の意、といわれていた。

 「青鞜」の創刊号を飾ったのが、あの有名な「元始、女性は太陽であった。真性の人であった。今、女性は月である。他に依って生き、他の光によって輝く、病人のような蒼白い顔の月である」という文句である。また、この創刊号の表紙を描いたのが、あの『智恵子抄』の智恵子、高村光太郎の妻であった。

 当初は詩歌が中心の女流文学集団であったが、やがて伊藤野枝が中心になり婦人解放運動に発展していった。

 1915年、平塚らいてう(30歳)は、年下の画家・奥村博史(25歳)と同棲し、理想的な男女の共同生活を唱える。しかし、平塚らいてうを師として集まった女性活動家は納得できなかった。 
 これを知った奥村博史は、以下の手紙を残して平塚らいてうのもとを去る。
「静かな水鳥たちが仲良く遊んでいるところへ一羽のツバメが飛んできて平和を乱してしまった。若いツバメは池の平和のために飛び去っていく」
 年下の男の恋人を「若いツバメ」というが、その起源はここにあるといわれる。

 平塚より7歳若い市川房江は、1953(昭和28)年の第3回参議院議員通常選挙に東京地方区から立候補し初当選以来、通算5期25年務めた。

 1980昭和55)年の第12回参議院議員通常選挙で、87歳の高齢にもかかわらず全国区でトップ当選を果たしたが、翌年に心筋梗塞のため議員在職のまま死去した。平塚はそれより10年前の1971(昭和46)年に他界している。85歳だった。

 なお、菅直人は1974(昭和49)年28歳の時、参議院選挙で市川の選挙スタッフを務めた。>>> 当頁上へ


§ 大杉 栄
アナキストら築地精養軒で晩餐会


 大杉栄の日記によれば、1914(大正3)年2月22日、「築地精養軒 近代思想(自ら主宰した雑誌)、生活と芸術(明治・大正・昭和の歌人、土岐善麿が主宰する雑誌) 執筆者晩餐会 同夜鎌倉に戻る」とある。( )内は、筆者注。
 大杉栄は、明治・大正期の思想家、社会運動家でありアナキスト。婦人解放運動家、小説家、翻訳家でもあり、自由奔放な男女関係でも知られる伊藤野枝(のえ)との四角関係(ともに所帯持ち)でも知られる。関東大震災後に憲兵隊に連行され殺害された。38歳であった。

 伊藤野枝は、平塚らいてうが首唱した『青鞜』に集まっていたひとりである。当時21歳であった伊藤野枝には、上野高等女学校時代の教師であった辻潤(28歳)との間にふたりの子がいた。しかし、伊藤野枝は、夫・子を捨て、夫の友人である大杉栄(31歳)のもとへ走った。
 しかし、大杉栄には妻の保子がいた。また、神近市子という愛人もいた。大杉栄の「それぞれが経済的に独立し、別居しながら恋愛する」という考えに共鳴し、思想(革命論)にもひかれていたのだ。

 伊藤野枝はそれを承知で「たとえ大杉さんに幾人の愛人が同時にあろうとも、私は私だけの物を与えて、ほしいものだけのものをとり得て」と考えていた。

 後に神近市子は、自分の経済力をあてにして自説を展開する大杉や野枝に疑問を持つようになり、大杉を刺し警察に自首する日蔭茶屋事件を起こす。
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§ 板垣退助と大鳥圭介
新政府要人・板垣、旧幕府軍陸軍奉行・大鳥と上野精養軒で会見


 第15代将軍・徳川慶喜は1867(慶応3)年10月、朝廷に対して日本の統治権を返上する事を表明した。いわゆる大政奉還である。引き続いて同年12月「王政復古」の大号令が発せられる。

 しかしこれを認めようとしない全国の旧幕府軍は、薩長を中心とする新政府軍と戊申戦争などの内戦を起こす。その頂点にいた榎本武揚は函館・五稜郭などの拠点を占拠し、北海道に事実上権力を成立させ、総裁の座につき、榎本政権または蝦夷共和国などと呼ばれた。

 その旧幕府軍の陸軍奉行に就いたのが大鳥圭介(写真右)である。五稜郭で降伏の後は囚われの身となり、東京は軍務局の糺問所へ投獄される。

 1972(明治5)年、精養軒が馬場先門で創業した年に特赦で出獄してからは、新政府のために教育や外交面で活躍する。

 1877(明治10)年には工部大学校(東大工学部の前身のひとつ)の校長に任命される。その後、元老院議官、学習院院長兼華族女学校校長、駐清国特命全権大使、それに枢密院顧問官他の明治政府要職を歴任する。

 この大鳥圭介と新政府側にいた板垣退助(写真左)は、役所内では顔は合わせたであろうが、落ち着いて面談する機会がなかった。そこで、これを知った報知新聞(*)の主筆・栗本鋤雲が、二人の会談を仕込んだ、その会場が上野精養軒であった。
(*) 現在の「スポーツ報知」の前身で一般紙であった。明治末から大正にかけて、東京で最も売れた新聞で、東京五大新聞(東京日日・時事・國民・東京朝日・報知)の一角を占めた。
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§ 後藤新平
ソ連極東大使と上野精養軒で会見


 明治から大正、昭和初期にかけて、医師、官僚、そして政治家として活躍した後藤新平は、第7代の東京市長を1923(大正12)年の4月27日に辞任したが、翌月の5月6日、上野精養軒で、ロシアの革命家であり、ソビエト連邦の政治家、外交官、当時はソ連極東大使であったアドリフ・ヨッフェと私人として会見している。日ソ関係の改善が目的であった。国民外交の旗手と呼ばれた。

 東京市は旧東京府東部に1889(明治22)年から存在していた市。市域は現在の東京23区に相当する。1943(昭和18)年7月1日、東京都制施行で廃止となった。

 後藤は、関東大震災(1923=大正12年)の直後に組閣された第2次山本内閣で、内務大臣兼帝都復興院総裁として震災復興計画を立案した。それは大規模な区画整理と公園・幹線道路の整備を伴うもので、予算規模は当時の国家予算の約半分だった(提案予算の半分が議会で承認され約5億7500万円だった)。この事業により、現在の東京の都市骨格、公園や公共施設が出来上がった。

 後藤新平は岩手県出身で、江戸時代後期の蘭学者・高野長英は大叔父にあたる。また、田中角栄の後継として三木武夫を選定した「椎名裁定」で知られる、当時の自民党副総裁・椎名悦三郎は甥にあたる。社会学者の鶴見和子、その弟の哲学者の鶴見俊輔は孫である。

 台湾総督府民政長官、満鉄初代総裁、逓信大臣、内務大臣、外務大臣、東京市第7代市長等の政治家歴の一方、ボーイスカウト日本連盟初代総長、東京放送局(のちの日本放送協会)初代総裁、拓殖大学第3代学長など民間職も務めた。

 同年12月27日、テロリスト難波大助(父・昨之進は衆議院議員)が皇太子時代の昭和天皇を狙撃(無傷)する虎ノ門事件が勃発、これにより公職を辞任した。

 アドリフ・ヨッフェは、多彩な政治活動を経験するが、スターリンの活動に反対する左翼反対派に属し、1920年代(大正中期~昭和初期)を通してレフ・トロツキーの友人かつ忠実な支持者であった。
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§児玉源太郎
日露戦争勝利の功績者の大追悼会、築地精養軒で


 児玉源太郎は1852(嘉永5)年、現在の山口県周南市で長州藩の支藩・徳山藩の中級武士(百石)の長男に生まれた。

 日清戦争に勝利した結果、日本は台湾を清国から割譲された。これを統治する台湾総督府が日本の出先機関として台北に設置された。初代総督は海軍大将・樺山資紀、2代目は桂太郎・陸軍中将、3代目は乃木希典・陸軍中将、そして第4代目が児玉源太郎・陸軍中将であった。

 台湾総督府は1947(昭和22)年まで19人の総督が務めたが、児玉源太郎の任期は8年2か月で、第5代の佐久間左馬太・陸軍大将に次いで2番目の長さである。総督時代、日清戦争終了後の防疫事務で実力を発揮していた後藤新平の才能を見出し、総督府民生長官に任命し、全面的な信頼の元に台湾統治を委任した。

 日露戦争開戦前には、児玉源太郎は台湾総督兼内務大臣であった。内務大臣は1885(明治18)年から出来たポジションで、1947(昭和22)年12月31日まで存続した。国内の警察、治安、衛生、地方自治を管掌する内務省を指揮監督する大臣である。設置当初はさらに大蔵、司法、文部各省を除く内政のほとんどを掌握する権限の強い役職であった。

 日露戦争直前、ロシアの常備兵力は日本の約15倍、国家の予算規模は日本の約8倍という超大国であった。日本には圧倒的に不利な状況だったのである。

 ちょうどその頃(1903=明治36年)、対ロシア戦の計画を立案していた田村怡与造参謀次長が急死した。大山巌参謀長は、この後任に児玉源太郎を懇願した。これは降格人事であったが、児玉源太郎は台湾総督と内務大臣という2つの職を辞して、この役を引き受けた。こうした降格人事を承認した者は、陸軍が1945(昭和20)年に解体するまで児玉以外にはいなかった。

 児玉源太郎は、国際情勢や各国情勢の分析に長けており、日露戦争の全体戦略の立案、満州での実戦の陣頭指揮、戦費の調達、アメリカへの講和の依頼、そしてヨーロッパでの帝政ロシアへの革命工作などにその実力をいかんなく発揮した。

 兵力や予算など圧倒的に不利な状況の中、それを覆し日本を日露戦争勝利へと導いた功績は大きく讃えられている。

 このほかにも業績はたくさんあるが、東郷平八郎、大山巌、そして乃木希典らと共に日露戦争の英雄として有名な、その児玉源太郎大将の第十三回忌大追悼会が、1919(大正8)年)築地精養軒にて開催されたのだ。
 すでに存在していた帝国ホテルを抑えての格式の高かった当時の精養軒であった。
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§勝海舟とクララ・ホイットニーと福澤諭吉
日常的に築地精養軒を利用

 
 幕末の幕臣として江戸城無血開城などを成し遂げた勝海舟(写真左)

 開国を迫られた幕府は、海防意見書を広く公募した。勝海舟もこれに応募し、これが老中主座の阿部正弘の目に留まる。その後、勝海舟は幕府が海軍士官育成のために設立した長崎の海軍伝習所に入る。海舟30代前半のこと、単身赴任であった。

 この長崎時代に出来た愛人のひとりに「おくま」がいた。彼女との間に男子が生まれた。名は梅太郎。海舟の三男として東京で育てられた。

 この梅太郎は、アメリカ人女性クララ・ホイットニー(写真中)と結婚、1男5女をもうける。何故、アメリカ人女性かと言うと、クララの父ウイリアムは、1875(明治8)年、東京銀座尾張町(現在の銀座4丁目)に私塾商法講習所(一橋大学の前身)を開設する。

 この講師として呼ばれたのがウィリアム・ホイットニーで家族で日本へ移住し、築地精養軒の近隣に住んだ。ところがホイットニー家は、経済的に困窮し、これを面倒見たのが勝海舟だった。

 両家は家族ぐるみのお付き合いをし、クララと4歳年下の梅太郎は恋に落ちたのである。
 その頃の様子をクララは『勝海舟の嫁 クララの明治日記』〈上〉(下) (中公文庫)として残している。
 一部を覗いてみると・・・;

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1876(明治9)年11月3日
 今日はミカド陛下の誕生日で・・・ミカドは二十九歳になられたと思うが、確信はない。
(略)精養軒ホテルは、紅白の提灯と旗で美しく飾られていた。そして今晩、その提灯がともされた時には、効果は抜群だろう。たいへんな人出で、特に外国人と役人が目立った。
 勝夫人と、おこまつと、お逸が出迎えて下さったので、私はお辞儀をして挨拶をし、お土産を出して中に入った。客間へ行く間、おこまつとお逸は私のまわりで踊り浮かれ、お母様は後ろからおごそかについていらっしゃった。
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 このほかにも、海舟が精養軒へきて「うちの予約ははいっているか?」と尋ねたり、クララが精養軒のことを描写したりする場面が出てくる。

 また森有礼は、明六社関連で福澤諭吉(写真右)とつながっている。福澤諭吉は木挽町にあった精養軒でよく明六社の会食が会った時、馬に乗ってきては通りかかったホイットニー家に立ち寄ることもあったという。

 当時の銀座・京橋界隈には、煉瓦造りの西洋風建物が軒を連ね、夜の街路をガス燈が照らし出していた。西周(あまね)、津田真道(まみち)、福沢諭吉、加藤弘之ら明六社の洋学者たちは、築地の精養軒で一円二十銭の西洋料理をとりながら、政治・経済・教育・思想・宗教・国際関係など万般にわたって新しい知識を交換し、活発な論議をたたかわしたといわれている。
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§木戸孝允=桂小五郎
気前よく籤の当り金を譲る、築地精養軒にて


 木戸孝允は、幕末の尊王攘夷派の中心人物・桂小五郎として知られる。薩摩藩の西郷隆盛、大久保利通とともに「維新の三傑」と並び称せられる。

 1869(明治2)年(36歳)から木戸孝允を名乗る。孝允は「たかよし」が正しい読みだが、有職読みで「こういん」とも呼ばれる。

 因みに有職(ゆうそく)読みとは、古人の実名を音読みにして敬意をあらわすことである。

 精養軒の創業者・北村重威が京都から随行してきた岩倉具視が正使となって編成された「岩倉使節団」(総勢107名)が、米欧を1年9ヵ月にわたって視察した時、木戸孝允は、大久保利通、伊藤博文、そして山口尚芳とともに副使となっている。

 幕末から明治初期にかけて大きな業績を残した。
 その木戸孝允が、明治初年(35歳)から亡くなる(1877=明治10年)直前まで欠かさずつけていた『木戸孝允日記』なるものがある。その中の1875(明治8)年5月19日に次のように書いている。

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四時より精養軒の集会に赴く。掛金の籤、余に当れり。而して杉孫七郎へ譲る。
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金額や事情は分からないが、随分気前の良かった心だてがうかがえますね。
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§昭和初期、寝耳に水の新党結成記者会見、上野精養軒にて

 1927(昭和2)年6月1日、水面下で動いていた保守系の2党、憲政会と政友本党が合併する。事情を知らない政界人にとっては、まさに大激震であった。

 当時の保守系大政党立憲政友党総裁で首相であった原敬(写真左)は、1921(大正10)年11月4日関西へ遊説に出かけるため東京駅丸の内南口へさしかかったところ、彼の政策に批判的であった、国鉄大塚駅の転轍手の中岡艮一(こんいち)に右胸を短刀で刺され、ほぼ即死状態で暗殺された。

 後任として高橋是清が首相に就任したが、原敬に重用されていた床次(とこなみ)竹次郎(写真右)は高橋に不満を抱き、新党・政友本党を設立、総裁となる。

 その後、紆余曲折はあったものの党勢は振るわず、後藤新平の仲介によって1927(昭和2)年、憲政会・政友本党が合同して新党・立憲民政党が結成され、総裁には濱口雄幸(おさち)が就任、床次竹二郎は党顧問に就任した。

 政官財界に身を置くものですら、その動静が分からなかった「寝耳に水」のようなこの「政・憲合同、立憲民政党の結成」は、当時の政界では上を下への大騒ぎの出来事であった。
 その記者発表が、政財界の社交場でもあり、格調高い名店でもあった上野精養軒で行われたのである。
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§憲政会発足発表

 前記の「政・憲合同、立憲民政党の結成」のうちの憲政会が発足したのは1916(大正5)年10月10日であるが、その結党式が行われたのも上野精養軒であった。

 大隈内閣の倒閣後、寺内正毅が首相になる(1916=大正5年10月9日)が、その翌日には、同志会(加藤高明総裁=写真左)、中正会(尾崎行雄総裁=写真右)と交友倶楽部が合同して憲政会が成立したのだ。

 当時は、憲政擁護運動が盛んなころで、このような政党の結成はもちろん、憲政擁護に絡む集会が頻繁に開かれ、精養軒は会場としてよく使われた。

● 1913(大正2)年1月17日
全国記者大会、築地精養軒で開催。約400人が参加。「憲政擁護、閥族打破」を決議した。

● 1913(大正2)年2月5日
憲政擁護大会、築地精養軒で開催。「薩閥根絶、海軍廓清」を決議した。廓清は「これまでにつもりたまった悪いことを払い除いて清めること。粛清」(広辞苑)。

● 1913(大正2)年7月8日
孫文(写真)、上野精養軒で中華革命党結成大会を開催

 孫文は、ご承知のように中国の清朝末期の混乱期にあって、1911(明治44)年の辛亥革命の中心人物となり、翌年中華民国を建国、臨時大総統に選ばれた。

 2月には袁世凱に交替、まだ6歳であった幼帝・溥儀は、自覚もないまま退位となり、ここに中国・清朝は滅亡した。

 その後、溥儀は日本軍によって満州国皇帝に祭り上げられた。戦後は戦犯としてソ連に抑留されたり、文化大革命にも翻弄され、最後は一介の植木職人として人生を閉じるという、まさに波乱の生涯を送った。

 孫文は何回か日本に来ている。この辛亥革命に先立つ1905(明治38)年には、日本で中国革命同盟会を結成している。1908(明治41)年には、前記の溥儀(2歳)が皇統を継承している。

 さて、中国建国の翌1913(大正2)年、第二革命で袁世凱が孫文を排斥、孫文は日本へ亡命する。そして7月8日、孫文は上野精養軒で中華革命党結成大会を開催したのである。

 精養軒はこのように、国際的な政治舞台としても重用され、重要な役割を果たしてきたのである。

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 以上、政治の世界では精養軒がどのように活用されてきたか、その一例を見てきた。ここに紹介しきれなかった、まだまだ沢山のエピソードがあるに違いない。チョンマゲから洋服へ、そのほか精養軒が関係する食文化、文学、思想等々、いろいろな局面で日本の近代化がすすめられた明治期、大正期。

 その中で精養軒は「舞台装置」として「フランス料理の嚆矢」の役割を自負しながら、政治家の動向をつぶさに見守ってきたのだった。