精養軒での文壇の華麗なる交流
築地精養軒、上野精養軒ともに、
明治、大正期には文壇のそうそうたる面々に頻繁に利用された。
その内容は、祝賀会、記念会、壮行会、送別会等々、多岐にわたる。

●精養軒を愛用した文人たち(順不同、人名をクリック)●
谷崎潤一郎 森鴎外 芥川龍之介 高村光太郎 横光利一 司馬遼太郎  小泉八雲
上田 敏 太宰 治 中原中也 二葉亭四迷 尾崎一雄 島崎藤村 与謝野鉄幹 
与謝野晶子 夏目漱石  里見 弴 永井荷風 正宗白鳥 萩原朔太郎 小川未明 
吉村 昭 武者小路実篤 サイデンステッカー 阿部次郎 白洲正子 吉田東伍  


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§谷崎潤一郎 1886(明治19)年 - 1965(昭和40)年
北村家の家庭教師の時、見習い女性にお手付き


『痴人の愛』、『春琴抄』、および『細雪』などの作品で知られる谷崎潤一郎には、その偉大さからは想像もつかない人間らしいエピソードが築地精養軒に残っている。
 潤一郎が幼少の頃、生家は裕福であったが、父が事業に失敗し次第に凋落して行く。潤一郎が東京府立一中(現・東京都立日比谷高校)在学中には学費の支払いにも事欠くようになり、第一高等学校(現・東京大学教養学部)への進学も諦めなければならない状況に至った。

 潤一郎の学才を惜しんだ勝浦校長や漢文担当の渡辺盛衛先生が父親を説得した。その結果、渡辺先生の口利き築地精養軒の第3代目主人北村重晶の家(当時の京橋区采女町33番地、築地精養軒の隣地)へ書生兼家庭教師として住み込むことができた。明治35年15歳のときである。

 明治38年9月(19歳)、一高に入学する。ところが明治40年6月(20歳)の時、箱根の旅館から行儀見習いに来ていた穂積フクとの恋愛が発覚、北村家を追放されてしまった。文豪にして普通の青年らしい一面を垣間見ることができる。その後は伯父らの支援で学業を続けられることになる。

 これに関する事の顛末は彼の自伝的小説『神童』や『鬼の面』(大正5年刊)にまとめられている。
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§森鴎外
留学中の恋中女性ドイツ人が後を追って横浜へ、家族に内緒で築地精養軒へ宿泊


 夏目漱石と人気を二分するほどの文豪で、幾多の著作で知られる森鴎外にも艶談がある。

 森鴎外は本名を森林太郎という。1862(文久2)年、津和野藩藩主の御典医の長男として誕生。幼少時から論語、孟子、四書五経、それにオランダ語などを学び、学業優秀で、9歳で15歳相当の学力ありと推察されていた。

 1881(明治14)年、東大本科医学部を19歳で卒業(最年少卒業記録)。父の病院を手伝った後、陸軍省へ入省、陸軍軍医副(中尉に相当)に。文部省派遣留学生として1884(明治17)年、22歳から4年間、ドイツへ留学する(1888=明治21年、9月、横浜港へ帰国)。

 日露戦争に軍医部長として出征した後、陸軍軍医総監(中将に相当)に昇進し、陸軍省医務局長に就任した。人事権を持つ軍医のトップである。
 鴎外は立派な医師でもあったのだ。

 この軍医の森林太郎が森鴎外として文学活動を始めるのは、1894(明治27)年の日清戦争の後、30歳を過ぎたころからだが、それ以前にも評論や訳詩を発表している。

 代表作としては『舞姫』(1890年)、『ヰタ・セクスアリス』(1909年)、『青年』(1910年)、『雁』(1911年)、『阿部一族』(1913年)、『山椒大夫』(1915年)、それに『高瀬舟』(1916年)などがある。
 このように鴎外は、軍医でありながら小説家、翻訳家、評論家、それに劇作家としても幅広く活躍した。

 さて、この鴎外の艶っぽいエピソードとは・・・。

 ドイツ留学で人脈や研究でいろいろな収穫を得た鴎外は、1888(明治21)年、意気揚々と横浜へ帰国した。しかし、帰国後1週間もしないうちに、エリーゼ・ヴィーゲルトというドイツ人女性が彼を追って横浜港に降り立った。彼女は鴎外がドイツにいた時にできた恋人であった。

 これ聞き知った森家では上を下への大騒ぎ。表沙汰にならないうちに何とか彼女に帰国してもらわなくてはならない。森家では妹婿の金井良精に交渉を託した。金井の説得が功を奏し彼女は10月17日にようやく横浜から帰国の途につくことになった。

 この時、彼女が1ヵ月余り滞在したのが築地精養軒だったのである。

 この間の顛末については、鴎外自身が作品『舞姫』(明治23年発表)の中に書いている。作品の中ではドイツ人女性はエリスという踊り子だが、実際にエリーゼが踊り子だったのかどうか、あるいはエリーゼがいかなる女性であったのかの史実を語る資料は今のところない、といわれている。

 森鴎外の長女・森茉莉(まり)は随筆集『父の帽子』を書いているが、これは実際の鴎外の姿を書いたものである。鴎外も精養軒とは顔なじみであった。家族連れで幾度となくここに足を運んだようである。

 なお後刻、1922(大正11)年11月9日、与謝野鉄幹が発起人となり、新聞各社の文芸部記者を招き、森鴎外全集刊行の記者発表をしたのも築地精養軒であった。これは永井荷風の日記にも記されている。
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§芥川龍之介
大阪毎日から中国特派員に、その送別会を上野精養軒で


 芥川龍之介は、1892(明治25)年に京橋区入船町(現・中央区明石町)の牛乳屋の長男(といっても上二人は姉なので末子)として誕生。35歳で自殺するまでに、代表作として 『羅生門』、『鼻』、『戯作三昧』、『地獄変』、『藪の中』、『歯車』そして『河童』などを発表している。

 1913(大正2)年、難関の東大英文科へ進学。在学中から文学活動を開始。卒業後、海軍機関学校の嘱託教官(担当は英語)として教鞭を執るかたわら創作に励む。1918(大正7)年には教職を辞して、大阪毎日新聞社に入社。1921(大正10)年に大阪毎日新聞社特派員として中国に派遣される。

 この送別会が3月9日、菊池寛、久米正雄、江口渙、宇野浩二を発起人として、上野精養軒で与謝野晶子、山本有三、吉井勇、小山内薫ら総勢約20名を集めて行われた。

龍之介は、知人・薄田淳介宛に次のような書簡を送っている。
「・・・(前略)紀行は毎日書く訳にも行きますまいが、上海を中心とした南の印象記と、北京を中心にした北の印象記と、二つに分けて御送りする心算です。どうせ祿なものは出來ぬものと御思ひ下さい。一昨日、精養軒の送別會席上にて、里見弴講演して曰、「支那人は昔偉かつた。その偉い支那人が、今急に偉くなくなるといふことは、どうしても考へられぬ。支那へ行つたら、昔の支那の偉大ばかり見ずに、今の支那の偉大もさがして來給へ」と。私もその心算でゐるのです。(後略)・・・」

なお、芥川比呂志は長男で俳優、演出家、芥川也寸志は三男で作曲家、指揮者である。
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§「智恵子抄」の高村光太郎
結婚披露宴を築地精養軒で


 高村光太郎は、彫刻家・高村高雲の長男。東京美術学校(現・東京藝術大学)の彫刻科卒業の彫刻家。彫刻科卒業の後、西洋画科にも学ぶ。在学中から文学にも興味を寄せ、与謝野鉄幹らと知りあう。

 その後、ニューヨーク、ロンドンにそれぞれ1年、パリに9ヵ月留学。1909(明治42)年、築地精養軒の新館完成の年に帰国。1914(大正3)年には、詩集『智恵子抄』でおなじみの女流画 家・長沼智恵子と結婚したが、その披露宴が行われたのが精養軒(おそらく築地精養軒)であった。

 この結婚披露宴には、田村俊子夫妻も出席している。田村俊子(写真右)は1884(明治17)年生まれで、官能的な退廃美の世界を描き人気があった。死後に発生した印税で田村俊子賞が1961(昭和36)年に創設され、女流作家の優れた作品に贈られた。

 初回受賞作は、瀬戸内晴美の『田村俊子』。第17回まで続いて終了した(1977年)。
 智恵子は当時、若き女流西洋画家として注目されるようになってきていた。平塚らいてう(雷鳥)が発行した『青鞜』の創刊号の表紙を描いたのは智恵子だ。平塚らいてうは、日本の思想家・評論家・作家・フェミニスト。戦前と戦後にわたる女性解放運動・婦人運動の指導者で、後年には平和運動にも関わった。

 『青鞜』は、日本で最初の女性による女性のための文芸誌。ブルーストッキングの和訳。ブルーストッキングは18世紀半ば、ロンドンのモンタギュー夫人らの催した文芸愛好家のサロンの名称で、出席者の一婦人が青い靴下をはいていたことから、文芸趣味や学識のある女性のこと呼称するようになった。

 1914(大正3)年、智恵子29歳、光太郎と内縁関係に入る。この年の暮れ、上野精養軒で与謝野鉄幹、晶子、藤島武二ら各界の知名士30名を招いて盛大な結婚披露の式を上げるが、美術教授にして帝室技芸員高村高雲家から受け入れられるはずがなかった。

 帝室技芸員とは、皇室がわが国の工芸技術の保護と制作奨励をするために1890(明治23)年に制定された制度の維持・推進に当たる。

 明治維新以後、ヨーロッパから次々と新しい美術が入り、わが国の美術・工芸の衰退と美術家の経済的困窮が顕著になってきたことに対して、フランスのアカデミーにならって制定されたと言われている。

 智恵子の実家は、清酒「花霞」を醸造する酒造家で、資産家であった。しかし、1931(昭和6)年頃から智恵子は、実家の破産などもあって精神を病み始め(統合失調症)た。睡眠薬で服毒自殺を図る。未遂に終わるが症状は進行。1938(昭和13)年10月5日、7年にわたる闘病の末、肺結核で他界(52歳)。3年後、光太郎は30年に及ぶふたりの愛を綴った詩集『智恵子抄』を刊行した。
 
 次の『あどけない話』という誌は、余りにも有名だ。

     あどけない話

     智恵子は東京に空が無いといふ、
     ほんとの空が見たいといふ。
     私は驚いて空を見る。
     桜若葉の間に在るのは、
     切つても切れない
     むかしなじみのきれいな空だ。
     どんよりけむる地平のぼかしは
     うすもも色の朝のしめりだ。
     智恵子は遠くを見ながら言ふ。
     阿多多羅山(あたたらやま)の山の上に
     毎日出てゐる青い空が
     智恵子のほんとの空だといふ。
     あどけない空の話である。
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§ 横光利一
結婚披露宴を上野精養軒で

 1927(昭和2)年2月、菊地寛の媒酌で日向千代(女子美術学校刺繍高等科24歳)と結婚(29歳)。豊多摩郡杉並町阿佐谷(現・阿佐ヶ谷北3-5辺)に新居を構える。同年3月、川端康成らと同人「手帳」創刊(26名)。4月5日、結婚披露宴を上野精養軒で開催。川端康成、伊豆湯が島から上京して参加。
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§三島由紀夫
『宴のあと』に精養軒が登場、富裕層の昼食会場

 三島由紀夫の人と作品については、余りにも有名なのでここでは割愛する。
 精養軒との関係は、1960(昭和35)年に「中央公論」の1月号から10月号まで連載された彼の『宴のあと』に、登場人物の以下のような会話が掲載され、会話の中に精養軒が登場している。

  ろくろく花の種類を見きはめずに言はれたこの言葉には、親切よりも不平の調子がありありと現はれたので、野口は俄かに気むづかしくなつた。鉢を受けとつてからはじめてかづは気がついた。それは二人がかつて精養軒で中食をしたとき、野口が説明した花だつたのである。

  「あの花、何て申しましたつけ? 精養軒で名前を教へて下さつたわね」
  寝つく前の一トしきりの咳がやむと、野口は麻の夏蒲団の中で寝返りを打つ乾いた大仰な音を立てて、かづへ背を向けた白髪の頭が、面倒臭さうにかう言つた。
 「デンドロビウム」
 (略)

 因みにこの作品は、元外務大臣で、社会党(当時)から東京都知事にも立候補したことのある有田八郎氏が、1961(昭和36)年、自分のプライバシーを侵すものとして、三島と出版社・新潮社を相手取り、慰謝料と謝罪広告を求める訴えを東京地方裁判所で起した作品である。結果的には有田の死後、和解が成立したが、日本における小説のプライバシー侵害事件としては初めてのものであった。

 もちろん、精養軒は小説に登場しただけで、何ら法に抵触していない。登場人物のような富裕階層が昼食に精養軒に立ち寄ったということである。
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§司馬遼太郎
『陸軍参謀本部の昼ごはんは精養軒から・・・』と講演


 歴史小説家として、余りにも有名。代表作には『国盗り物語』、『竜馬がゆく』、『坂の上の雲』など多数。

大阪外国語大学(現・大阪大学)蒙古語科卒。産経新聞記者時代に書いた『梟の城』で直木賞を受賞し、同社を退社し作家活動に入る。菜の花が好きな作家としても知られている。また、産経新聞記者時代に付けた記事の見出し「老いらくの恋」は流行語にもなり、現在にも伝わっている。

 その司馬が、1976年5月28日、日本記者クラブで公演した時に、精養軒につき以下のように触れている。
「ノモンハンを引き起こしたのは、陸軍大学の卒業生だということです。そこで、その卒業生ばかりを訪ねてみました。それだけではなく、そもそも陸軍大学はどのような学校で、どんなことを教えていたのかも調べてみた。
 また、陸軍大学の卒業生が参謀本部に入りますので、参謀本部は昼ごはんをどこで食っていたのか、というようなことを聞いてみました。すると、上野の精養軒から運んできた弁当を食っていたというのです。その値段はたしか十銭でしたが、実質は七十銭ぐらいの食事が入っている。精養軒の犠牲なのです。精養軒は名誉だと思っていたのでしょう。おかもちで持ってきたとかいいます」

 他の資料にも見られるが、精養軒は陸軍へ、このように仕出し配達をよくしていた。また、明治期の陸軍は、幹部候補生に対し、精養軒へいって洋食を食する事を進めている。日清、日露の両戦争で国威は高揚しており、西欧化に対応すべく洋食を勧めたという。
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§小泉八雲
東大講師として、足しげく精養軒へ


 ギリシャ出身の小泉八雲は、1890(明治23)年に来日。同年、島根県松江尋常中学校(現・島根県立松江北高等学校)と島根県尋常師範学校(現・島根大学)の英語教師に。翌年、松江の士族・小泉湊の娘・小泉節子と結婚。

 1896(明治29)年、上京。東大英文科の英文学の講師になる。この年、帰化し小泉八雲と名乗る。このころ足しげく精養軒へ通った。

 節子との間に三男をもうけるが、長男一雄は『父「八雲」を憶う』の中で次のように書いている。

 「あの頃の上野には今日よりも遙かに古木が多く、塵埃も少なくて精養軒は静かな処でした」
八雲は1903(明治38)年まで東大講師を続けたが、後任には夏目漱石がなった。翌年に亡くなっている。
(写真:ブログ「事務職員へのこの1冊」から)
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§上田 敏
アメリカ遊学の送別会を上野精養軒で、与謝野鉄幹、島崎藤村ら参加


 「山のあなたの空遠く/幸(さひはひ)住むと人の言ふ」で始まるカール・ブッセの「山のあなた」や、「秋の日の/ヴィオロンのためいきの/身にしみて/ひたぶるに/うら悲し」で始まるポール・ヴェルレーヌの「落葉」の訳詩でよく知られるところだ。

 1974(明治7)年生まれの文学者、評論家、啓蒙家、そして翻訳家でもある。英・独・仏等の外国語に通じていたが、上田が師事した小泉八雲は、彼の英語表現力は外国人並みであると称賛している。

 上田は1907(明治40)年に私費でアメリカ、ヨーロッパへと遊学する事になるが、出発直前の11月25日、その送別会が上野精養軒で開催された。幹事は与謝野鉄幹で、参加者は島崎藤村、馬場孤蝶、森鴎外、夏目漱石らそうそうたる文士50~60人であった。

 近代日本を代表する二大文豪の鴎外、漱石はこの日、初顔合わせだったという。

 この席で鷗外、漱石は、相次いで壮行の辞を述べた。漱石のスピーチに鷗外は、「夏目君にはああした独特のユーモアがある」と感歎したという(成瀬無極「大正文壇の追憶」)。
 同書によれば、この集まりに「靑楊会」という名前を付けたのは鷗外であった。会場の「精養軒」と上田の号「柳村」に因んだ命名であったという。
 上田は、翌年帰国するが、京都帝国大学教授や慶応大学文学科顧問などを歴任し、1916(大正5)年、41歳の短い生涯を閉じた。

 上野精養軒が文壇の超一流どころに利用されていた証しである。
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§ 太宰 治
処女作品集『晩年』の出版記念会を上野精養軒で、檀一雄、井伏鱒二ら参加


 
    太宰 治              檀 一雄             井伏鱒二

『走れメ ロス』、『斜陽』、そして『人間失格』などでお馴染みの太宰治(写真左、20代の頃)。
青森県の大地主・名士の家に生まれる。父は、県会議員、衆議院議員、多額納税による貴族院議員等を務めた。

 多感多情といえるか否か定かではないが、東京帝国大学仏文科時代から、麻薬鎮痛剤パビナールや睡眠薬の異常ともいえる大量使用により重度の中毒症に陥ったり、女性を絡めての数回の自殺など、精神活動の先鋭化からか肉体的には非健康的な生涯だった。

 しかし、作品に惹かれる読者は多い。第一回の芥川賞候補になったが、惜しくも落選、受賞したのは石川達三『蒼氓』であった。

 そのパビナールだが、注射の量は段々と増え、ついには1日50本にも達した。案じた周囲のすすめで、一時期、武蔵野病院にある麻薬中毒救護所に入院したこともある。中毒の進行による体力衰微に、友人たちは彼の健康が先行き思わしくないと感じ、檀一雄(*)の尽力もあって、彼の処女作品集『晩年』を砂子屋書房から出版した。
(*) 俳優・エッセイストである檀ふみの父。

 その出版記念会が井伏鱒二(写真右)など友人ら30数名を集めて、1936(昭和11)年7月11日に盛大に行われた。その会場が、上野精養軒だったのだ。司会は檀一雄(写真中)、会費は2円50銭だったという。
解題につき、太宰治自身は次のように語っている・・・。

「『晩年』は、私の最初の小説集なのです。もう、これが、私の唯一の遺著になるだろうと思いましたから、題も、『晩年』として置いたのです。
 読んで面白い小説も、二、三ありますから、おひまの折に読んでみて下さい。
 私の小説を、読んだところで、あなたの生活が、ちっとも楽になりません。ちっとも偉くなりません。なんにもなりません。だから、私は、あまり、おすすめできません」

 なお、作家・太田治子は『斜陽』の主人公「かず子」のモデル太田静子の娘である。
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§ 中原中也
精養軒の味は極上もの、の例え


 中原中也といえば、「汚れちまった悲しみに 今日も小雪の降りかかる」という詩をだれしもが思い浮かべる事だろう。

 1907(明治40)年生まれの詩人・歌人・翻訳家。1937(昭和12)年に結核性脳腫瘍でわずか30歳で夭折したが、350篇以上もの詩を残した。

 死後、多くの作曲家が彼の詩に曲を書いている。クラシック系の歌曲、合唱曲が多いが、演歌やフォークソングもある。その中でも友川かずきによるアルバム『俺の裡で鳴り止まない詩』は良く知られるとことだ。友人であった作家・大岡昇平も、『夕照』、『雪の宵』の2篇に曲を付けている。

 その中也が「よもやまの話」(1934=昭和9年)というエッセイの中で、自らも関わっていた翻訳界や日本の文化に触れており、こう語っている・・・。

「どつちにしても、明治以来の我が文化は不消化なものであり、母親の作つたオムレツみたいに美味い不美味いの、ともかくも納得のいく料理といふものは食つたことのない文化である。ちつとも見通しといふことがない、子供が何になるかと云はれて大将と答へる如く、あ、これが大将かなと思つてはA書を読み、是こそが大将であると思つてはB書を読む。精養軒は美味いのであり、おふくろのオムレツは不美味いのである?」

 「精養軒」が出ている、これだけの引用では意味不明であろうと思われるので、前後の文脈から解説すると次のようになろう。

 明治以降の文化にしろ、翻訳にしろ、われわれはその本質を見極め、消化して行くべきだ。精養軒の料理は美味く、母親が作ったオムレツは不美味いとア・プリオリ(哲学用語で、経験がなく頭からそう思うこと)に認識するのではなくて、もろもろのこと、自分でひとつひとつ確かめていくことが大切だ。

 つまりここでは、精養軒は味わったこともない極上物として引き合いに出されている。それほど、精養軒の料理の味は評判高かったのだ。
 
 著作権も切れていると思われるので、冒頭の詩をご紹介しよう。

汚れっちまった悲しみに
今日も小雪の降りかかる
汚れっちまった悲しみに
今日も風さえ吹きすぎる

汚れっちまった悲しみは
たとえば狐の革裘(かわごろも)
汚れっちまった悲しみは
小雪のかかってちぢこまる

汚れっちまった悲しみは
なにのぞむなくねがうなく
汚れっちまった悲しみは
懈怠(けだい)のうちに死を夢(ゆめ)む

汚れっちまった悲しみに
いたいたしくも怖気(おじけ)づき
汚れっちまった悲しみに
なすところもなく日は暮れる……

     (注1) 革裘は、毛皮の防寒用コート。
      (注2) 懈怠=簡単にいうと怠慢のこと。「仏教で、精進に対していい、悪を絶ち、
           善を修めるのに全力を注いでいないこと」(広辞苑)
      (注3) 「汚れっちまった悲しみ“に”」と「汚れっちまった悲しみ“は”」を
           使い分けています。

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§ 二葉亭四迷
朝日の記者としてロシアへ、その送別会を精養軒で、帰途、ベンガル湾上にて客死


 「ふたばていしめい」が「くたばってしめぇ!」からきていることを中学校か高校の頃、興味深く覚えて、いまだに忘れられない。

 文学を解さない彼の父親が、彼のことをそう言ったとか、彼自身が自嘲的にそういう筆名にしたのかは確証がない。

 明治時代の文豪で、写実主義の描写と言文一致の文体は、当時の文壇に大きな影響を与えた。現在の東京外国語大学露文科へ入学するが、後に合併し、現在の一ツ橋大学第三部露語科へ転籍。しかし、新任できた校長を嫌い、退学した。

 1908(明治41)年、東京朝日新聞の特派員としてロシアに赴任する事になる。歓送会が行われたが、参集したのは親交のあった坪内逍遥、内田魯庵、田山花袋、島村抱月ら30人以上の当時を代表する文士の面々だった。

 その歓送会が行われたのが上野精養軒であった。

 ところが二葉亭四迷はロシア赴任中に体調を崩し、海路、帰国の途に就くがベンガル湾上にて客死してしまう。ベンガル湾はインドの東方。西から東進する船がこれからマラッカ海峡に入らんとする位置である。
 1910(明治43)年、二葉亭四迷の追悼会が行われるが、この会場も上野精養軒であった。夏目漱石は、歓送会にも追悼会にも参加している。

 田山花袋は歓送会のいきさつについて、次のように書いている。

「長谷川(二葉亭四迷の本名)氏はこれからロシアに行かうとしてゐた。満し難い心、文學に甘んじてゐることの出來ない心、哲學にも深く入ると共に世相にも深く通じた心、さうした心が、故郷に満足されすに、遠くロシアに行かうとしてゐるのであつた。

 其時は確かダンチエンコ(*)の歓迎會を八百膳あたりで開きたいといふ相談を H 君と打合せに來たのであつたが、それから暫くして、私達は氏のために途別會を上野の精養軒に開いた」
          (*) ロシアの演出家・ネミロビチ・ダンチェンコであろう。早くから劇作、小説、そして評論などの分野で活躍。
            1989(明治31)年には、コンスタンチン・スタニスラフスキーとモスクワ芸術座を創設している。

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§尾崎一雄
精養軒にて芭蕉の「花の雲 鐘は上野か浅草か」とのんびりしていたら耳元でゴ~ン!


 神奈川県小田原出身。旧制小田原中学、早稲田大学の頃から後の政治家・河野一郎とは友人。

 処女作『二月の蜂蜜』(1925=大正14年)のあと長い停滞期を経て1937(昭和12)年、短篇集『暢気眼鏡』で第5回芥川賞を受賞し、作家的としての地位を確立した。

 『上野桜木町』の中に、精養軒を語った次の文がある。
「『鐘は上野か浅草か』などと云ふとのんびりしてゐるが、せんだって精養軒の入口の邊に立つてその邊を眺めてゐたら、いきなり耳元でゴオンとその鐘に鳴られてビックリ仰天した。鐘はいくらか離れて聞きくべきものである。

 精養軒の下にある五條天神と云ふのは、井原西鶴の何かに出てくるさうで、これも山崎からきいた。私も西鶴はいくらか読んだが気がつかなかった。」

 『鐘は上野か浅草か』というのは、言わずと知れた芭蕉の名句である。冒頭に『花の雲』が付く。『花』はもちろん桜。花曇りの空に鐘の音が聞こえる。あれは上野寛永寺の鐘か、はたまた浅草浅草寺の鐘か・・・。深川の芭蕉庵で詠んだ句で、前期の傑作の一つと数えられる。

 尾崎一雄が聞いたのはこの「時の鐘」で、現在では上野精養軒のすぐ横にあり(写真、いまでも朝夕6時と正午には鐘が突かれる。

 また、五條天神は正式には五條天神社とう。社伝によれば、日本武尊が東征した時、大己貴命と少彦名命という出雲神話の出てくる神を上野忍が岡に祀った医薬祖神という。

 社地は何度か転地したが、1928(昭和3)年、創祀の地に最も近い現在地に遷座され、現在に至る。
2010年には鎮座1900年を記念し、大祭が挙行された。
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§ 島崎藤村
「生誕50年祝賀会」が上野精養軒で


 1921(大正10)年、2月17日、藤村の数え年50歳を祝って「島崎藤村生誕50年祝賀会」が上野精養軒で開催された。白鳥省吾、西條八十ら多数参加の模様だが、詳細資料にたどり着けないでいる。

 これより先に、文壇では島崎藤村、徳田秋聲の両氏の誕生50年祝賀會を築地静養軒で開催したが、島崎氏に対しては詩壇でも祝賀すべきものとして、単独で催した。
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§ 与謝野鉄幹・与謝野晶子
渡欧の送別会/帰国歓迎会を上野精養軒で


 明治・大正・昭和期の、歌人夫婦として良く知られる。
 与謝野鉄幹は、「ますらおぶり」といわれる質実剛健の歌風で知られる浪漫主義派の歌人として台頭し、1900(明治33)年、月刊短歌誌『明星』を立ち上げ、北原白秋、吉井勇、そして石川啄木などを見出す。1901(明治34)年には、妻となる晶子の類稀なる才能を看破し、歌集『みだれ髪』をプロデュースし刊行する。

 情熱的、官能的、瑞々しいなどと絶賛され、晶子は浪漫派の中心詩人として成長して行く。刊行の年、鉄幹は晶子と不倫関係になり、ほどなく結婚する。

 鉄幹は、1892(明治25)年から4年間山口県の女学校で国語教師を4年務めるが、この間、女生徒と出来てしまい、退職して1児をもうけるが、間もなく死亡。次には、同じく女性と同棲し、こちらも1児をもうける。この後、晶子とのめぐり合いになる。

 鉄幹は、晶子と結婚してからは、文学的に不振に陥る。これを見かねた晶子は、鉄幹にヨーロッパ行きを勧め、鉄幹は1911(明治44)年11月に横浜港から出航する。彼の渡航後、愛する夫を送った晶子は腑抜けのようになる。鉄幹からも盛んに渡欧の誘いが来る。

 喜びにこころ躍らせて半年後の5月5日、晶子はシベリア鉄道で後を追うように渡欧する。しかし、女の喜びも母の悲しみには勝てなかったのか、半年後の10月27日には帰国してしまう。そのときに何人の子供がいたのか明らかではないが、鉄幹・晶子は六男六女をもうけている。

 鉄幹も1913(大正2)年に帰国する。鉄幹40歳、晶子35歳のときであった。
 この渡航費は、森鴎外が工面してくれたという。

 この、二人の渡欧に伴う「与謝野寛(本名)渡欧送別会」(明治44年11月4日)と「与謝野寛帰国歓迎会」(大正2年2月8日)が行われたのが上野精養軒であった。
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§ 夏目漱石
作品中にしばしば精養軒登場


 夏目漱石の代表作に数えられる『三四郎』や『行人』に、精養軒はしばしば登場する。

 『三四郎』は1908(明治41年)に、また『行人』は1912(大正1)年から翌年に掛けていずれも朝日新聞に初めて掲載された。

 『三四郎』は、九州の田舎から出てきた小川三四郎が主人公。都会に出てきて環境も人も珍しいことだらけの中で、いろいろな人との交流を経て成長して行く過程を描いている。

 その内の一人、大学で知り合った佐々木与次郎がある会を精養軒に設定した。そのやりとりの場面である。

******
「どこであるのか」
 「たぶん上野の精養軒になるだろう」
 「ぼくはあんな所へ、はいったことがない。高い会費を取るんだろう」
(略)
 「どうです。もうよして、いっしょに出ちゃ。精養軒でお茶でもあげます。なにわたしは用があるから、どうせちょっと行かなければならない。――会の事でね、マネジャーに相談しておきたい事がある。懇意の男だから。――今ちょうどお茶にいい時分です。もう少しするとね、お茶にはおそし晩餐(デナー)には早し、中途はんぱになる。どうです。いっしょにいらっしゃいな」
(略)
 「じゃ、こうなさい。この奥の別室にね。深見さんの遺画があるから、それだけ見て、帰りに精養軒へいらっしゃい。先へ行って待っていますから」
(略)
 「精養軒へ行きますか」
***以上、『三四郎』の八

 与次郎が勧めるので、三四郎はとうとう精養軒の会へ出た。
(略)
 三四郎はこのいでたちで、与次郎と二人で精養軒の玄関に立っていた。
***以上、『三四郎』の九

 いっぽう、『行人』は、自分本位に行動する男(長野一郎)とその妻(直)の間にできる溝を通して、近代知識人の苦悩を描いた小説である。弟の長野二郎は、兄と結婚する前から直を知っている。兄に直の貞操を試すよう依頼を受ける。
 その二郎と父との場面で精養軒が登場する。
二郎は父から食事に精養軒に誘われるが、入ることができない。

***
二人はまたのそのそ東照宮の前まで来た。
「精養軒で飯でも食うか」
(略)
 行きがけに気のつかなかったその精養軒の入口は、五色の旗で隙間なく飾られた綱を、いつの間にか縦横に渡して、絹帽(シルクハット)の客を華やかに迎えていた。
「何かあるんですよ今日は。おおかた貸し切りなんでしょう」
***『行人』は、「友達」、「兄」、「帰ってから」および「塵労」の4つの編から成り立っているが、上記は「塵労」の八に出てくる。
***
 当時、精養軒では催事や著名人の集まりがあると建物を飾り立て、会合の盛り上がりを演出していたようである。
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§ 里見弴
各種祝賀会・送別会に出席、父親の三回忌も精養軒で


 1920(大正9)年11月3日、33歳、田山花袋、徳田秋声生誕五十年記念会の祝賀会(築地精養軒)に出席。他に芥川龍之介、谷崎潤一郎、広津和郎、菊池寛、藤森成吉、上司小剣、木下杢太郎らが参加。

 前年には、父親の3回忌を精養軒で行う。

 大正10年1月17日、島崎藤村氏誕辰五十年祝賀会、詩話会主催で上野精養軒。

 同年2月9日、上野精養軒で芥川龍之介の支那旅行の送別会。菊池、佐佐木茂索、久米、晶子、豊島与志雄、小山内、万太郎、三重吉、山本有三、南部修太郎、小島政二郎、中根駒十郎ら。言葉を述べる。(19日出発)

 12月12日、大神宮で行郎と章子の結婚式、精養軒で披露
ペンネームの里見は、電話帳をペラペラとめくり指でトンと突いた所が里見姓であったためとしている。小説家・有島武郎は実兄。(写真:鎌倉西御門サローネHPから)
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§ 永井荷風
森鴎外の逝去食事会、上野精養軒で


 『断腸亭日乗』から。
1922(大正11)年7月9日七月七日。夜半与謝野君電話にて森夫子(鴎外)急病危篤の由を告ぐ。七月九日。早朝より団子坂の邸に往く。森先生は午前7時頃遂に纊を属せらる。悲しい哉。七月十六日。森先生遺族の招待にて上野精養軒に往く。露台の上より始めて博覧会場の雑踏を眺め得たり。帰途電車満員にて乗るを得ず。歩みて万世橋に至る。
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§ 正宗白鳥
文壇の飲み会しばしば、築地精養軒


 『自然主義文学盛衰史』(講談社文芸文庫)の中で、こう綴っている。
***
 つまり、田山花袋と徳田秋声が、まだ生きてて有楽座で演説会が行われ、築地の精養軒で宴会があったみたいです。二人が正面に座ってて、大町桂月や有島武郎が参加して、みんなで「いやー、おめでとう」かなんか、あいさつしたんでしょうね。
***
第一次世界大戦後の好景気のころで、翌年には島崎藤村生誕五十周年祝賀会ですから、このころの文壇はこのようなイベントをしばしば行っていたのでしょう。
 写真:現代小説全集第14巻   
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§ 萩原朔太郎
与謝野晶子新訳刊行の記念会、上野精養軒


 1939(昭和14)年10月、上野精養軒で開催された、与謝野晶子新訳刊行の記念会に参加。
(写真は1930=昭和5年撮影)
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§ 小川未明
還暦祝賀会を上野精養軒で


 1942(昭和17)年、還暦を祝福され「現代童話四十三人集」(フタバ書院)を贈られ、上野精養軒で祝賀会が催された。
写真出典:『頸城文学紀行』小林勉・著 耕文堂書店
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§ 吉村昭と津村節子
結婚披露宴を上野精養軒で


 1953(昭和28)年11月5日、吉村昭は学習院文芸部で知り合った北原節子(後年の津村節子)と結婚。その披露宴が上野精養軒で行われた。
(吉村の写真は河出書房新社刊「吉村昭 歴史の記録者」表紙、
津村の写真は福井県立図書館HP)

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§ 武者小路実篤
80歳祝賀会を上野精養軒で


 1965(昭和40)年5月、東京都より名誉都民称号を贈られる。文壇画壇・出版界有志の発起による満80歳祝賀会が、上野精養軒で開催された。
(写真は1956=昭和31年撮影)
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§ サイデンスティッカー
追悼会が上野精養軒で、『源氏物語』の翻訳者


 2007(平成19)年11月、『源氏物語』の英訳者として知られるエドワード・ジョージ・サイデンスティッカー(1921=大正10年生-2007=平成19年没)氏の追悼会が上野精養軒で開催された。

 彼は日本文学作品の翻訳を通して、日本の文化を広く紹介したアメリカ人の日本学者。谷崎潤一郎、川端康成、三島由紀夫らの日本の文学作品を相次いで英訳した。『源氏物語』の英語完訳はアーサー・ウェイリーに続いて二度目の快挙だった。

 『雪国』の英訳により、川端康成のノーベル文学賞受賞に貢献した。 実際、川端康成自身、「ノーベル賞の半分は、サイデンスティッカー教授のものだ」といい、賞金も半分渡している。 また、日本文学の研究者であるドナルド・キーンとも親交が深く、東大在学中は彼を家に宿泊させていた。
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§ 阿部次郎
築地精養軒での夏目筆子の婚礼披露宴に出席

 1914(大正3)年に発表された『三太郎の日記』は、学生には必読書ともいわれた、いわば青春のバイブル。高校時代に貪るように読んだのが懐かしい。
阿部次郎は、作家というより哲学者、美学者として知られる。
その彼の日記に次の行(くだり)がある。




(写真撮影:土門拳氏)

***
1918(大正7)年4月25日 
夜精養軒にて夏目の筆子さんの婚礼披露、帰りに寺田(寅彦)、小宮(豊隆)、鈴木、野上、津田、岩波(茂雄)、和辻(哲郎)とヰ゛ヤナ、カツフエーにより十一時頃帰宅。
***

 名前の( )内は、筆者の補足。筆子は夏目漱石の長女。阿部次郎は夏目漱石に師事したことがある。筆子と結婚したのは、漱石の門人で小説家の松岡譲。彼女からの愛の告白に応え、東大哲学科を卒業した翌年に結婚した。

 しかし、これ以前に小説家・劇作家の久米正雄は、漱石夫人の鏡子に筆子との結婚の許しを請うていた。「筆子が同意するなら」との言質を得たが、筆子は松岡を愛していた。

 この状況に、久米と反目していた山本有三が久米を中傷する怪文書を夏目家に送付した。久米は久米で、自分が夏子と結婚するような小説を発表したり、「漱石令嬢、久米正雄と結婚」という情報を自分の主宰する雑誌に流したりした。

 こうしたことから、久米は夏目家を出入り禁止となった。

久米は1922(大正11)年になって筆子との失恋をテーマにした小説『破船』を発表している。
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§ 白洲正子
姉の結婚披露宴、上野精養軒で


 白洲正子(写真右)の姉・泰子と近藤廉治の結婚披露宴は、上野精養軒で開かれた。詳細な年月は手元にないが、1933(昭和8)年以前であることは確かである。

 泰子の夫君は、1872(明治5)年、岩崎弥太郎が経営する三菱商会に入社し、後に日本郵船会社社長や貴族院男爵議員となった近藤廉平の次男。

  正子は、政治家・実業家で在米20年の樺山愛輔の次女。父方の祖父も、母方の祖父も海軍大将で伯爵という家柄。この結婚式や披露宴が行われた上野精養軒の格式の高さがうかがわれる。

 因みに正子は、4歳から梅若流の能を始め14歳で女性で初めて能楽堂の舞台にあがり、能に造詣が深い。青山二郎や小林秀雄の薫陶を受け骨董を愛し、古美術や日本の美についての随筆を多く著す。

 1929(昭和4)年に白洲次郎(写真左)と結婚。

 白洲次郎は、官僚であったが、終戦直後の連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)支配下の日本で、吉田茂首相の側近として活躍。

 GHQと渡り合い、イギリス留学時代に習得した英語で、主張すべきところは頑強に主張して譲らなかった。
 GHQの某要人に「従順ならざる唯一の日本人」と言わしめた。
 吉田政権崩壊後は、実業家として東北電力の会長を務めるなど、多くの企業の役員を歴任した。
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§『大日本地名辞書』完成披露祝賀会、上野精養軒で、各界大物150名参加

 「時代を超えての名著」というものがある。
 多くの著作が、その時代の衰退とともに忘れ去られていく中で、時代を超えて燦然とその価値が光る著作がある。

 「地名の巨人」とか「日本歴史地理学のパイオニア」と言われる吉田藤東伍が著した『大日本地名辞書』は、まさに「時代を超えての名著」と言えよう。明治時代に13年をかけて日本を踏破・調査し、地名辞典とはいうものの、本人も「地誌」としてその著書を性格付けているように、その地方の自然・風土・文化の特性を活写している。
 まさに日本全土の「郷土」を集大成した全国地誌といえる。民俗学的にも貴重な資料として尊ばれている。

 著者・吉田東伍は新潟県の農民の子として生まれ、著書の完成時は早稲田大学の文学部史学科の教授(43歳)であった。

「『郷土』の大地こそが『日本』の風土の一部であり、日本を正しく理解するためには、日本の風土を組み立てている郷土をしっかりと見なければならない」と考えていた。

 今日、歴史的な地名を、官僚の管理効率や郵便配達夫の便宜のため、一律に丁目、番、号に統一し、それがあたかも近代化のような時代錯誤的な行政が展開されている。

 吉田東伍は、人間活動の舞台としての「土地」、そこに刻まれた歴史の語り部としての「地名」を大切にすることを教えてくれる。歴史的地名を失うことは郷土を失うことであると言っている。

 同書は識者の間では、読むと、その土地土地の風景が浮かんでくるような描写だといわれ、好事家ならず垂涎の的となっている。作家・池波正太郎の書斎にも置かれていたそうだ。現在では全8巻で、古書として10万円は下らないといわれている。

 その『大日本地名辞書』(冨山房発行)の「完成披露大祝賀会」が1907(明治40)年10月15日、上野精養軒で、坪井九馬三(くめぞう、歴史学者、東大教授)他、当時の日本を代表する知識人や大隈重信(政治家、初の政党内閣首相、早稲田大学創設者、総長)、前島密(政治家、郵便制度の父)等の政治家など、各界の大物150人余が集う大パーティとして盛大に開催された。

 会場正面には、四つ目袋綴じ(*)の著書の原稿が積み上げられていた。原稿と言っても当時は美濃紙だ。美濃紙は清流・長良川と板取川で育まれる和紙である。繊細で強靭なため正倉院に保存されている資料にも使われている。その漉き方は国の無形文化財に指定されている。
(*)四つ目袋綴じというのは、和装本の代表的な製本方法。和紙を横位置に置き、文字を縦書きにする。これを、文字側を外側にして二つ折にし、折り目でない方を4ヵ所、糸かこよりで綴じる方法を四つ目袋綴じという。
 会場には、この原稿の和装冊子が469冊も積み上げられていたのだ。高さが15尺と言うから、約4.5メートル。「常人の成せる技ではない」とか「空前絶後だ」などと参加者の口々から驚きと称賛の言葉がこぼれた。

 このような文化的な大イベントに、精養軒は時代を代表する格調高い名店として活用されていたのだ。
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