はじめに
上野精養軒は、今ではハヤシライスが美味しい普通のレストラン
位にしか思われていないのは残念である。
日本のフランス料理店の嚆矢、西洋料理人の源流、
明治・大正期の政界、財界、文学界の一大社交場であった。
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§ はじめに

 上野精養軒について、一般の人はどのようなイメージを抱いているのだろうか?

 いまでは「上野精養軒」でインターネット検索すれば、容易にいくつかの情報をヒットする。しかし、その内容はハヤシライスとか結婚式案内とかの表面的な情報が多く、上野精養軒の本当の姿を探ることはできない。普通の西洋料理店としての説明しか出ていないのだ。 

 ところが上野精養軒は、現存する日本最古の西洋料理店で、老舗中の老舗なのである。西洋料理の元祖、西洋料理人の源流ともいえ、日本の文明開化を食の文化で支えてきた大立役者なのである。

 創業は明治5年。当時は幕末から明治へと時代が変わり、西欧化が推進されていたとはいえ、まだまだチョンマゲの人も多く、そのチョンマゲを切ってもいいよ、という通称「断髪令」が出たのが明治4年だった。まだ大小の刀を腰に差して往来を歩く人も多かった。特別な場合以外は帯刀禁止(刀を腰に差して歩いては行けない)という「廃刀令」が出たのは明治9年。この年、築地精養軒は上野公園に支店(現在の上野精養軒)をオープンした。

 

 日本人の食事は旧来から菜食中心であったが、西欧化に押されて明治天皇が初めて牛肉を食したのも、築地精養軒が開業した明治5年になってからである。この年、明治天皇は初めてオーダーメイドの洋服を着用した。翌年には断髪している。21歳であった。

 精養軒からは、日本で最初にエスコフィエ(*)の技術を導入した西尾益吉氏(第4代目料理長)や、森永クッキングスクールで多くの後進を育てた鈴本敏雄氏(第5代目料理長)、また「天皇家の料理番」として約40年間も君臨した秋山徳蔵氏らをはじめとして、西洋料理史上名高い多くの料理人を輩出している。その意味で精養軒は、日本の西洋料理人の源流とも言える記念碑的なレストランである。
(写真は、中央公論新社発行 中公文庫 「味」秋山徳蔵著から)
  (*)ジョルジュ・エスコフィエは、レストラン経営やフランス料理の改革や考案、大衆化で名を為したフランス人である。料理のみならず、料理人の旧弊改革や地位向上にも尽力した。彼の主著『料理の手引き』(Le Guide Culinaire=「ル・ギード・キュリネール」)は1903(明治36)年に出版されたが、約5,000ものレシピが掲載されており、いまなお世界のフランス料理のシェフのバイブルと言われている。
 
 今でこそフランス料理の最高峰とも言える帝国ホテルができた時(1890=明治23年)には、築地精養軒から何人もの料理人がスカウトされていったといわれる。当時は、築地精養軒では初代料理長にはフランスで腕を上げていたスイス人を迎えていた。鎖国を解き、文明開化が進む日本で本格的な西洋料理を楽しめるのは、築地精養軒をおいて他になかったのである。

 あの鹿鳴館が開業したのは、築地精養軒が開業した、まだずっと後の明治16年のことである。天皇家が欧米の要人を接待するときに、これまでの和食から洋食へ正式に変更するに当たり、明治天皇に西洋料理のマナーを案内したのは、精養軒の創業者・北村重威(しげたけ)であった。

 明治・大正期の顧客層は大変なものであった。
 森鴎外、谷崎潤一郎、夏目漱石を始め、文壇のほとんどの文士が頻繁に利用していた。夏目漱石の『三四郎』ほか、いろいろな作品の中に精養軒は登場している。『智恵子抄』でお馴染みの高村光太郎と智恵子はここで結婚披露宴をしているし、島崎藤村の生誕50年祝賀会も精養軒で行われた。

 谷崎潤一郎は学業優秀であったが、進学に際し学費に困窮し、精養軒第3代目の北村重晶の家で面倒を見てもらっていた。ところが行儀見習いの若い女性と恋に落ちた。北村家から出ていかざるを得なかった。後刻、彼はこの経緯を作品化している。

 森鴎外のエピソードも興味深い。
 医師であった彼はドイツ留学へ留学する。ひとり帰国したが留学中にドイツで恋中であったドイツ女性が遠路、船で日本へ彼を追ってきてしまう。これが名家である実家に知れたら大変なことになる。その時、実家に内緒で彼女を宿泊させていたのが築地精養軒であった。

 精養軒の創業者・北村重威が、側用人として京都から東京へ同行した岩倉具視はもとより、伊藤博文、井上馨、後藤新平、大隈重信ら明治期のそうそうたる著名政治家も会議、大会などで精養軒を大いに利用していた。財界では渋沢栄一が公用にも私用にも頻繁に活用した記録が残っている。
 
 また、現在の銀座ライオンの原型は精養軒が作ったものだし、列車食堂車を運営する日本食堂の設立や初期の運営、東京ステーションホテルの開設にも精養軒は関わってきた。
 当時の列車食堂の人気メニューは、ビーフステーキとカレーライスだったという。また、スイス人シェフ、カール・ヘスが焼いたパンは「かつを節パン」として乗客に人気があった。
写真左:1911(明治44)年開業の「カフェ・ライオン」。


 明治・大正期はまさに、築地精養軒、上野精養軒が主要かつ格調高い名店として存在し、ここで幾多の政治的、財界的根回しや決定、文学的なイベントやお披露目が行われてきた。世はまさに精養軒を中心に回っていたのではないかと思えるほどの盛況を見せていた。

 その一部をここにご紹介したい。読者の往時を偲ぶ縁(よすが)となれば嬉しい。

                                      編集者/記者  新 津 正 人

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