対談:創業者・北村重威の孫・城戸四郎
精養軒の創業者・北村重威の孫が、つい最近まで生存していた。
その名は、城戸四郎。元松竹の会長である。
彼が存命中、東京・銀座の商店会が発行する広報誌『銀座百点』の中で、
在りし日の精養軒を語る。
以下、精養軒に関わる史実的な部分をご紹介する(敬称略)。
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 『銀座百点』1977年刊 №270 銀座百店会発行
対談「精養軒 昔ばなし ――城戸四郎縦横対談――」

対談相手は安西英太郎(銀座大黒屋=記事末に注)。城戸四郎は、
父親が北村重威の養子になった人である。肩書は同誌発行時。


     西郷隆盛は洋食がお好き

安西 
城戸さんは、日本最初のレストラン、築地の精養軒のお生まれと伺いましたが、その頃のお話からお聞かせ下さい。
城戸
 精養軒没落史だね。(笑声)私の祖父は北村重威といいましてね、岩倉卿が京都で蟄居しているときに茶坊主だったんです。これがなかなかの野心家で、官吏になりたいというのを、これからはそんなものよりも、洋食屋をやれ、と岩倉さんに説得されて始めたのが精養軒なんですよ。その重威のところに、私の父親が養子に入ったんです。父親は高松松平家の勘定奉行の伜でしたから、いくらか金が引き出せるかと思って、養子にしたらしいんだが、それほど金が出ないので、すこし虐待されたりなにかしたらしい。
安西 ほオー、なるほど。深謀遠慮ですねぇ。(笑声)
城戸 そうなんだな。
安西 精養軒はいま(筆者注・1977年、2003年からは時事通信の本社所在地)の銀座東急ホテルのところですね、憶えています。
城戸 あすこはたしか、坪五十銭かな。
(中略)
城戸 西郷(隆盛)さん、洋食が好きで、よく来たっていうんですね。いまの新喜楽(築地市場の近く)のところで、もう一つやれって言われたりしたそうです。そのあと、上野の、市有地をほとんど無料に近い地代で借りて、支店を出した。
安西 ああ、上野の精養軒、あれはこっちの精養軒の盛んな時分に、もう支店としてお出しになった・・・。
城戸 そう。それからのち品川にも、駅のそばへ支店を出したんですがね。銀座のカフェー・ライオンもそうですね。
安西 築地の精養軒は、私、おぼえています。城戸さんは、あそこで、お生まれになったんですか。
城戸 いや、別の住まいのほうです。けれども、精養軒の残飯で育ったことは間違いない。(笑声)
    
     家庭教師・谷崎潤一郎

安西 精養軒の創立者・北村重威は、お子さんはなかったんですか。
城戸 いや、一男一女で、長女は、私の先輩で、一高の野球選手をしていた原愛二郎の母で後に貴族院議員になった原という家にとついだんです。長男の重禮の伜、わたしより歳が二つ上だったが、これが、どうしても一中へ入りたいというんですね。それまで立教へ行っていたんだけれども、何とかして、一中へ入りたい、その勉強のために、家庭教師をさがしたんですね。そのとき、丁度、原の家に書生にきていた男がいる、それを家庭教師にしようということになったんですが、それが谷崎潤一郎なんです。
安西 ほう、そうですか。
城戸 その頃、谷崎は一中の生徒でしたが、大へん秀才で、(北村家に)住み込んで教えたんです。その伜が、立教から一中へ転校できた。その頃、転校ができましたからね。わたしが一中に入った時には、その伜は三年だったんですね。ところが、彼が出来が悪くて、おんなしとこ二度ダブったんですよ。わたしが三年になるときに、まだ三年にいて、とうとう追い出されちゃった。しかし、谷崎は、そのままそこ(北村家)にいたわけです。ところが、彼の一番上の兄貴というのが道楽者で、私の親父がついてゆかないと、銀行でも金を貸してくれなかったんですが、祖父が亡くなって、自由になったものだから、横浜の芸者を女房にした。その芸者がまた、新派の役者を色に持っちゃった。(笑声)
安西 なるほど。
城戸 その細君の使い走りをしたのが谷崎なんだ。それで谷崎ってものは、人間の裏をだんだんわかってきたんですね。それで先生の性格が出てくるんです。
安西 それで城戸さんもいろいろ覚えられたわけだ(笑声)。
城戸 いやいや・・・。(笑声)谷崎の『鬼の面』という小説に、この材料がかなりはいっていますよ。
(中略)
安西 すると城戸さんは昔の木挽町に住んでらした・・・。
城戸 そうです。精養軒の裏っ側に。
(中略)
城戸 その日露戦争に勝って、将軍たちが、銀座通りの各凱旋門を通ってきて、上野の精養軒でパーティを開くんですよね。そのとき、東郷(平八郎)さんだとか乃木(希典)さんだとか、みんなきたわけです。
安西 戦勝祝賀パーティですか。
城戸 そう、それで、わたしは精養軒の関係上、上野の精養軒にいたんですから。私の祖父(重威)が、赤い大黒様みたいな帽子をかぶって、赤い袢纏を(はんてん)を着て迎える。わたしたちは裏口のところに並んで、最敬礼して迎えたんですね。
安西 あ、そうですか。つまり、精養軒というのは、民間の鹿鳴館、そういった役割を果たしたわけですね。
城戸 その頃精養軒は岩倉公の口添えもあって宮内庁に出入りし、毎年陸軍大演習の際は料理を一手に引き受け、全盛を極めたが、渡辺千秋宮内大臣のとき東洋軒に一挙に変更されてから精養軒も次第に衰微するようになったんです。

安西英太郎記
 この対談は1977(昭和52)年の4月8日に行われた。城戸は速記を整理したり、加筆もして元気だったが、18日にこの原稿を編集部に渡したその晩、庭の手入れをしているときに脳卒中で逝去した。(筆者注:82歳だった)

筆者注
 渡辺千秋は、鹿児島、滋賀両県知事、北海道庁長官、内務次官および京都府知事を務めた後、1910(明治43)年から1914(大正3)年まで宮内省を統括する第5代宮内大臣を務めた。宮内省は現・宮内庁の前身である。

銀座大黒屋とは・・・同社ホームページから転載
 銀座大黒屋の歴史は初代安西重兵衛が現在の店舗があるこの場所で鶏卵卸商を始めた西暦1800年(寛政十二年)までさかのぼります。その後時代の流れの中、鰹節、のり、海産珍味等を扱う食料品店を経て、戦時中良質な食料品の入手が困難になった事を契機に女性小物雑貨店に業種変更した流れの延長として現在のハンドバッグ専門店へと至っております。創業から200有余年経つ今も江戸の商人の心を忘れずにお客様に愛される店作りを心がけております。

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